65th ANNIVERSARY 温故知新

伊吹植物園

65周年記念事業として
明治16年開園
「伊吹植物園」を
タペストリーで再現

代表
MESSAGE

代表挨拶

この度、周年を迎えて、私が初めて体感するもっとも厳しい状況の日本と我が街鳥取に感じています。改めて子孫繁栄の為の先人の意気込みと努力に敬服しています。今の私たち一族と鳥取の街を支えてくれた御先祖に感謝しています。ここに嘗て存在した植物園の姿を復元し、皆様に捧げます。

伊吹植物園

復元イラスト

土地高燥空気清凜眺望最も佳良にして四時花の絶ゆる時なく
観覧者常に多く園遊会等に度々使用せられ
人呼んで伊吹公園と称せり

明治1 6 年開園。小高い丘には清涼な風が流れ、見渡す眺めは素晴らしく、春夏秋冬花が絶えず、
常に多くの人々でにぎわい園遊会も開かれ、通称「伊吹公園」と呼ばれて親しまれた。

※番号をクリックするとイラストの下に説明が表示されます。

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入り口の石碑と句碑

入り口には、「伊吹植物園」と彫られた門柱が建っていました。人の背丈より大きく、昭和18(1933)年の鳥取大震災にも耐えました。俳句に親しんだ庄蔵は園内に句碑も建てました。句碑の一面には「培ひしままの姿や園の春 培園」とあり、 もう一面には「培ひに人手は借らず寒牡丹 機外」とあります。培園は庄蔵自身の俳号、機外は親交が深かった鳥取出身の俳人・岡田機外です。門柱・句碑とも、現在は子孫の家の庭に移されています。

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肥料試験田

試験田ではさまざまな作物や植物を育てて肥料の効果や特性を試しました。肥料といえば人糞が一般的だった時代、人工肥料の導入はとても先駆的で、その効果を知ってもらうためにも試験田は必要だったと思われます。

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今も残る伊吹産の木①

マルイ薬師町店とマルイ宮長店の駐車場に植えられている木は、最後まで伊吹植物園にあったクスノキです。平成11年の閉園の際に移植されました。

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鳥小屋

鳥取大震災で倒壊した建物を改修して鶏小屋に、その後ガラス温室に改修。室内で南洋原産の観葉植物を育て、喫茶店などに鉢ごとリースして定期的に入れ替える貸鉢業を行いました。

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神樹と東屋

池のほとりには小高い丘がありました。その頂の東屋からの見晴らしがとても良かったようです。東屋の横には「神樹」が茂っていました。これはニワウルシの別名で、明治初期に中国から日本に渡来した品種です。庄蔵はトレンド最先端の木を植物園に取り入れました。

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絵はがきに写る創設者・伊吹 庄蔵

花の中に佇む伊吹庄蔵です。園内には数千株のツツジが植えられ、5月ごろ、写真のように一斉に咲き誇りました。背後には若葉萌ゆるケヤキがのびのびと枝を伸ばしています。

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五元庵

この迎賓用の日本家屋では、園遊会の宴が催されました。大広間は70畳もあり、回り廊下にはガラス戸が巡らされていました。参加者たちは美しい庭を眺めながら酒を酌み交わしたことでしょう。政治家や財界人のほか、「卯の花会」など鳥取の俳壇の句会も催されました。

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試験田

ここは販売する庭木の苗木を育てる場所でしたが、戦時中は野菜や根菜などをつくり、食糧難をしのぎました。

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藤棚の島の浮かぶ池

園の中央付近の池では、カキツバタなどが初夏を彩りました。そのなかに浮かぶ出島は山陰一とも謳われた大株のフジが棚を成し、紫に染まる花盛りは園を象徴する光景のひとつでした。

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八角形の洋館

園内唯一の洋館で、周囲に植えられたコニファー(針葉樹)が西洋的な風情を引き立てました。八角形の構造は当時めずらしかったようです。

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今も残る伊吹産の木②

湖山池の青島へ続く橋の東側に、公園が広がっています。そこに、伊吹植物園から移されたクスノキがのびのびと枝を伸ばし、湖畔に遊ぶ人々を見守っています。

伊吹植物園のあった場所

PLACE
伊吹植物園のあった場所

鳥取市薬師町付近に、かつて「伊吹植物園」という広大な植物園がありました。最盛期の敷地は約1万坪。現在のマルイ薬師町店の辺りから西は鳥取城北高校の一部、東は相生町2丁目の住宅街までありました。伊吹植物園がつくられた明治時代初期、この辺りの地図はいまとまったく異なっていました。現在の「片原通り」(県道193号)も、市道「大森通り」も、ありませんでした。一帯には藩主池田家に仕えた士族らの屋敷などがありましたが、明治維新後、北海道移住などの理由で敷地が売りに出されました。それを豆腐町(現在の鳥取市片原町四丁目)で肥料商を営んだ伊吹庄蔵が買い取って明治16(1883)年、伊吹植物園を開きました。伊吹植物園の近くには明光院(出来薬師)という大きな寺があり、薬師如来を本尊に祀っていました。それが町名「薬師町」の由来であり、親しみを込めて、寺やこの地域を「薬師寺」と呼んだとも伝わっています。

伊吹植物園の役割

MISSION
伊吹植物園の役割

伊吹植物園には、二つの大きな役割がありました。一つは研究の場です。当時の鳥取県知事の応援も受け、園地を実験場として肥料の試験や農作改良に励みました。「利益よりも国益民福を計る志士気取りであった」と、後に語っています。もう一つは憩いと学びの場です。多様な植物を植え、園を無料で公開しました。四季の花が咲き、池や丘陵地、迎賓用の屋敷などを配した回遊式庭園は、鳥取市屈指の名所となりました。多くの市民や観光客で賑わうほか、政財界人、文人らの園遊会にも利用されました。課外授業も頻繁で、昭和4(1929)年、文部省の教育資料地に指定されています。しかし二度の災害[昭和18(1943)年の鳥取大震災、昭和27(1952)年の鳥取大火]や農地解放、園を横断する「大森通り」の開通(昭和35(1960)年)などにより、園地は次第に縮小。平成11(1999)年、マルイ薬師町店に敷地の大部分を譲り、116年の歴史に幕を下ろしました。現在、造園業の株式会社庭久松、飼料販売・鶏卵生産会社の株式会社イブキ、不動産業の有限会社培園と株式会社マルイ地研サービスなどが、そのDNAを引き継ぐ企業として鳥取で事業を行っています。

伊吹庄蔵

元治1(1864)年〜昭和10(1935)年
伊吹庄蔵

伊吹庄蔵は明治時代から昭和初期にかけて活躍した実業家・政治家です。家業は材木や菜種油の売買でしたが、庄蔵は徐々に肥料を扱い「伊吹肥料店」を創業。満州産有機肥料の輸入販売で急成長を遂げ、山陰でいち早く人工肥料を販売するなど、進取の気性に富んだ人柄だったようです。伊吹植物園の設立に際し、庭木も商い始めました。明治26(1893)年に市議会議員に当選し、現鳥取商工会議所の設立にも関わるなど、鳥取の発展のために尽くしました。実業家として手腕を振るう一方で、謡曲や俳句にも造詣が深く「培園」の号で作句し、地元俳壇とも交流を持ちました。笙やひちりきなどの和楽器もたしなみ、しばしば音色を披露したそうです。晩年の庄蔵は、教育と地域振興に並ならぬ情熱を注ぎました。伊吹植物園主として日本博物館協会の会員となり、東京での会議にも出席。昭和7(1932)年には樗谿公園に「こども植物園」を設立し、市内に郷土博物館設置も計画しました。残念ながら計画は実現しませんでしたが、庄蔵はその意義を「郷土をよく知り、反省し、愛して、他の人々に認識させようと努めれば、県外客の誘致となり産業の進展となる」と熱く述べ、地域振興に郷土教育が重要だと訴えました。伊吹植物園は家業から派生した事業でしたが、その運営を通して庄蔵は、観光や教育に未来を見たのかもしれません。植物園の姿はなくなっても、彼の思いは土壌に溶け、まさに肥やしとなって、鳥取の豊かな成長を支えていることでしょう。

DONATION

鳥取市への寄贈

タペストリは2024年秋頃に鳥取市への寄贈を計画中です。

  • スーパーマルイ薬師町店
  • 65周年記念特設LP制作
    株式会社日本海プラザ VZONE
  • 復元イラスト制作
    地の図案屋アースワーク
  • 株式会社マルイ地研サービス
COOPERATION

協力企業